ワールドクラスのリゾートとして世界中のお客様から愛される白馬。白馬を現在の姿にまで育て上げてきたのは、この土地に根ざして自ら事業をおこし影に日向に白馬の観光を支えてきた数多くの関係者たちです。そしてラネージュの創業者である塩島眞一氏と和子氏のご夫妻もまた、白馬を語る上で欠かすことのできない重要な役割を果たされてきました。
物語は1968年にまでさかのぼります。23歳だった塩島氏は、家業だった農業を離れ日本の若いスキーヤーをお迎えするロッジ「ラネージュ」を栂池に開業することを決意しました。栂池は1970年代から80年代にかけて白馬のなかでも人気の高いスキーの目的地で、当時はスキー場内にディスコまであったそう。そしてロッジ「ラネージュ」でも、時代を象徴していたきらびやかなディスコや宇宙開発のテーマを取り入れて宇宙船のようなデザインの未来的な別館をオープン、塩島氏と後に妻となる和子氏が出会ったのもこの頃でした。
塩島塩島氏と和子氏。このお二人が白馬バレーのアイコニックなリゾートホテルのなかでも代表的な1軒を創り出し、そして白馬を日本のみならず世界中の旅行者に愛される土地へと成長する原動力となって来ました。
1980年代のはじめ、塩島氏は和田野の森に土地を購入されました。この森こそが現在もホテル ラネージュが佇む場所であり、ラネージュが今日まで多くのお客様に愛されながら歩んでこられた原点でもあります。
白馬の自然を敬い、和田野の森を育んで保つ。ホテル ラネージュのこの理念は塩島夫妻の精神そのものです。ホテルの建設が始まる前から、塩島氏は自ら森を歩いてまわり、すべての樹木の高さや樹齢、健康状態を記録。これによって建設時に伐採する木々を最小限に抑え、ホテルが美しい森の一部のように調和して建つ現在の姿を可能としました。
また森になるべく手を加えないよう傾斜もそのまま利用。建物の中にはいくつかの段差がありますが、塩島氏が「人によっては不便に思われるかもしれないけれども、自然や動植物との共存を感じ取ってほしいと願ってデザインしたもの」と話されるように、館内にいながらにして起伏する大地を感じられるつくりとなっています。自然との調和の精神は、フォレストビューの大きな窓や森に囲まれたバスルームなどの特別な体験にも生きています。
英国チューダー様式の西館は1983年に完成し、東館が1990年に続きました。
ホテル ラネージュを生み出すにあたって、塩島氏の創造性を刺激したのは自然だけではありません。もう一つの重要な要素は建築への確固たる想いでした。中でも天才建築家フランク・ロイド・ライトへの敬愛は深く、その建築作品を自らの目で確かめるため何度も渡米したほど。
同様にブティックホテルの理想像を探るためフランスやイギリス、ドイツなどの名ホテルの数々も訪れ、それによってホテル ラネージュ独自のコンセプトを確立しました。
各部屋には塩島氏が手ずから選んだ家具を一つひとつ配し、それを起点としてデザインを組み立てることで画一的ではなくすべてのお客様に唯一無二のご滞在をお約束できるように工夫されています。今日のラネージュが持つ鮮やかな個性と魅力は、西洋的なデザインからのインスピレーションと塩島氏の鋭利な審美眼、そして日本ならではのおもてなしの調和によって成り立っています。
今や世界に名の通るリゾート地となった白馬ですが、現在までの道程は常に順風満帆であったわけではありません。最大の危機はスキーを核とする観光の低迷。バブル崩壊やレジャーの選択肢の増加などを背景として、白馬の観光は厳しい逆境に直面することになりました。しかし、そんな中でも塩島氏はただ状況の好転を望むのではなく、またホテル ラネージュのみの未来を案じるこもせず、仲間とともに世界の旅行者を白馬へ誘致する初めての組織的な取り組みとしてHakuba Tourismを立ち上げました。
塩島氏は、この試みについて白馬のコミュニティが持つ力と、地域そのものの強みを信じていました。塩島氏と仲間たちは、新たに「白馬バレー」の呼称を創造するとともに英語で白馬の魅力を紹介するマーケティング資料を作成。そして最初のターゲット市場としてオーストラリアを選び、現地へと飛びました。
白馬、そして長野県は1998年、冬季オリンピックの開催地となる栄誉を得ました。そして塩島氏はここでもクリエイティビティを振るい、オリンピックを歓迎する特別なモニュメントの建立を発起しました。
課題となったのはその費用でしたが、塩島氏は自ら白馬地域の経営者や市民、さらに日本コカ・コーラやキリン、エプソンなど国内の多くの企業にも働きかけ、オリンピック開催期間中に客室を提供する代わりとしてサポートを獲得。合計1000万円もの資金が集まってモニュメントは完成し、現在も塩島氏の行動力と白馬への愛を象徴する存在として和田野の森に立っています。
オリンピック開催までの期間、白馬は国内からの多くのお客様で賑わいましたが、閉会とともにブームは終焉。2004年頃にはスキーシーズン真っ只中でもスロープにほとんどお客様の姿のない窮地へと追い込まれました。
苦しい状況のなかでも関係者は力を尽くして突破の糸口を探りましたが、現在のようなインバウンドの活況を見るには15年もの年月を要しました。その当時和子夫人が心血を注いでいたのはグリーンシーズンの観光振興。特に力を入れていたのは独自のイベントで、コンサートや著名人を招いてのパーティー、あるいは茶会などを企画しました。
そして、そうした取り組みもあってホテル ラネージュではグリーンシーズンのリゾートウェディングが大きな収入源となり、またラネージュは白馬の中でも特に人気の高い結婚式会場のひとつとなりました。和子夫人は何百組にものぼる新郎新婦の希望を聞きながら白馬の山々や川辺、地元の教会などでオーダーメイドの式を企画。そしてすべての式をラネージュでの披露宴で締めくくりました。
和子夫人はあたたかで妥協のない進行によって新郎新婦の信頼と支持を勝ち得、その後も多くの方々に毎年のようにラネージュへお戻りいただけるようになりました。
2024年、塩島ご夫妻は熟慮の末に愛するホテル ラネージュを次のステージへ進める決断をされ、新たなオーナーにホテルの未来を委ねられました。新オーナーは白馬ホスピタリティグループ(HHG)を管理運営者として指定。両者はホテルがつむいできた豊かな歴史を尊重しつつ、リノベーションを含むアップデートと改良も加えさらに洗練を重ねた輝かしい未来に向けて進んでいきます。
塩島夫妻も引き続き名誉顧問として、ホテル ラネージュがお客様にご評価いただいてきたあたたかみや卓越性を確実に保ちながら、これからの新たな挑戦が正しく進んでいくようにお力添えをいただきます。